米国の閨秀作家エレン・ポーターの代表作に『少女パレアナ』がある。
ポリアンナとも訳されるが、1913年発表作。初めて日本で紹介したのは、赤毛のアンの邦訳者であるあの村岡花子である。この文学は、その昔日曜に放映されていたハウス食品提供の世界名作劇場枠でアニメ化されていたらしいのだが、私には記憶がなかった。
両親を病で亡くして孤児となったパレアナは、独り身で裕福な母方の叔母に引き取られる。
しかし、気難し屋でケチな叔母はパレアナを屋根裏部屋へ放り込む。しかし、パレアナはそこでめげない。鏡がなければ、自分のそばかすが見えなくていいと、楽天的な考えでこの侘しさを乗り切っていく。辛い境遇になかにあってもなにがしかの楽しみを発見するという、パレアナ流の喜びのゲームは、やがて側仕えのナンシーたちをはじめ、村の変わり者の老人や病人たち、高慢な婦人会のメンバーたちの心を入れ替えていく。
しかし、そんな矢先に、パレアナは交通事故によって下半身不随の身となる。
学校にも行けず、元の暮らしにも戻れない絶望。しかし、そんな彼女を待ち受けていたのは、パレアナを喜ばそうと、こころを結び付けていた村人たちのたくましく、明るく生きる姿だった。その励ましはパレアナを手術へと向かわせ、そして、頑なだった叔母の悲恋を成就させる結果になっていく。
ひとりの素直で明るい少女が周囲のこころを溶かしていくという筋書きは、ミヒャエル・エンデの「モモ」にも見られるものだが、こちらは幾分もファンタジーめいた部分がないだけに、主人公の言動には現実的な薬効がありそうだ。
パレアナはこの喜びのゲームを、牧師だった父から教わった。
人形遊びがしたかった娘に与えられたのは松葉づえ。父はそれを使わなくてすんだ健康さを喜べという。しかし、パレアナは不幸にもその杖なしでは歩けぬ体になってしまう。だが、その怪我があるからこそ、人びとはこの可哀そうな娘を勇気づけるために、行動に出たのだ。ある富豪は身寄りのない少年に家を与え、初恋に敗れた男は数十年後に愛を告白する。そして、パレアナ自身も回復する兆しを見せて物語は幕を閉じる。
この文学は当時合衆国内で大ブームを巻き起こし「パレアナイズム」だとか「ポリアンナ効果」だとか称されたという。心理学用語では「ポリアンナ症候群」を極度の楽天主義のために現実逃避していると定義しているようだが、こうした苦渋に対する感覚の鈍磨は、必要な人生戦略ではないだろうか。
私自身の人生を振り返ってみても、喜びのゲームじみた考えで乗り切れてきたことがあったのかもしれない。不登校になって2年遅れで高校卒業したから就職氷河期の第一世代にならずにすんだ、院卒で希望職種に就職できなかったが、むしろ適性の無さに気づけた。引きこもり経験や非正規職での転職歴の多さゆえに、現在の職務でも、中途入社者が挫折しないように配慮できた。身内が過労死したがゆえに社員の健康管理に目を配って声掛けしていたら、自分の病気には逆に励まされ、休みもとりやすくなった。前職者の仕事のやり残しに不満たらたらだったが、むしろ、自分が改革できる余地があってやりがいができた…などなど。
会社員も個人事業も、どちらも私にとっては百パーセント満足のいく道ではない。
家庭内でも課題があり、健康上の不安も尽きない。それでも、生きているだけで、平凡な毎日を送っていけるだけで幸せだということに気づいたのだ。消費した作品が面白なくても、周囲に誤解をうけても、わずらわしい仕事の締切りが待っていても、それでも気分をいつか盛り返すことができる明日がまたやってくるというだけで、人間はそれだけで喜ばしい生きものなのだということに。
しんどいことも明るく楽しそうにこなす。
そうした働きぶりは、他人に光りをあたえ、ともに生きようとする仲間を増やしてくれるのだろう。私は今の職場の待遇に決して十分ではないが、一部のひとから肩を叩きあえて足を前に揃えて進めてくれるような友愛をうけられたことに、とても満足しているのだ。そうした効果は、ほんらいはすこぶる悲観主義である私が、パレアナのように明るく振る舞うことで得られていくのだろう。人の上に立つもの、管理職にある者はまさにこの心構えが必要なのだ。
(2023/09/17)