芸術の秋、文化の日ウィークにはさかんにカルチャーイベントが発生します。
文化祭シーズンでもあり、各地の学校でも人出でにぎわっていることでしょう。
この時期、毎年近場で催される団体の絵画展があって。
時間があれば出向くようにしています。ご年齢層が高めの、画材ショップの店主が運営する趣味サークルの絵画展。親戚筋の公務員退職者が出品しているというのです。
無料展観の、趣味の手すさびにされているものですから、そこであれこれと批評家がましいことを言うのは野暮。
もちろん、そんなことはわきまえて鑑賞させていただくのですが。年々、気になっているのは、参加人数が減っていること。そのせいか、特定個人が二点も、三点も出品していたり。あきらかに数合わせで描き上げたな、という作品もあります。
こうしたグループ展というのは、自由題材ですから、テーマがありません。
個人の力量もまちまち。それだけに、どうしても展示場がまとまりのない感じを受けやすい。そうしたなかで、群を抜いて力量のある絵画はパッとみて、目につきやすいですし、サークルの有力者なのか、いつもいい位置に飾ってあることが多いものです。
壁にかかる絵画は額縁があるとはいえ、隣り合わせになった絵にどうしても左右されます。
配慮はしてあるのでしょうが、極端に巨大なキャンバスの横になると、スケッチブックぐらいの大きさの絵は負けてしまいがち。
画題にも個性が現れます。
いつも見晴らしのいい場所からの俯瞰的な海や船を描く人は、風景画ならではの遠近感をしっかりおさえていて、無機物らしい材質感をしっかりと表現。船のペンキのはげかけた具合も波の荒々しさも見事に再現できています。
力量の差が出やすいのがどうしても人物画で。
おそらく若い人の自画像と思われる絵は、アルファベットの粋なタイトルではあるにせよ、ポスターみたいなべったりした平坦な塗りで、あまり油彩画らしさがありません。彩色も混ぜあわせが足りなくて、複雑なトーンが出ていない。それでも、彼は自尊心溢れる自分の姿をこの一枚にとどめたかったのでしょう。わかりますね、その気持ち。私もそんな十代でしたから。
身近な若い娘さんを描いた絵。
岸田劉生の「麗子像」ほどの怪しさはなく、父親ご本人の愛情がほの見えるかのようで微笑ましいものの、絵のモデルをしてくれた睦まじい時期を通り越したら、この親子はどんな関係になるのだろうか、といらぬ想像をかきたててくれます。男性は、長年苦労を共にした奥さんは描きたがらないものですね、奥さんがモデルを嫌がっているのかもしれないけども。
個々人の生活事情が如実に反映されたと感じたのが、野外展示の彫刻展。
主宰者に毎年、案内状を送っていただいていたのですが。写真ではきれいに見えるのに、実物は…というパターンも多め。天候にも左右されるのでしょうが。
勢いがあってスケールが大きい作品は、たいがい男性の、大学教授とか高校教師だとかの作品。目の粗い上質な石彫りだったり、きれいに磨いたスチールを組んだ構築物だったり。溶接がたくみな鉄材作品は、やはり本職の職人さんだったりします。存分に技巧を発揮する素材にお金は惜しまない。
しかし、老いてくると、細い棒の金属になったり、サイズも低め小さめ、やたらと穴を開けた軽めの形状を好むようになるのもデザインの変更というよりも、個人の体力と相談した結果、なのかもしれません。
細めの輸入木材を組み合わせたとか、タイルを散らばせたとか、ロープや布を使うなどの処方をとるのは、駆け出しの若い男性か、女性作家が多い。
若い人はとくに造形しやすいプラスティックや樹脂を好むことが多いのですが、彩色が浅いので、どうしてもどこかフィギュアっぽいチープさが出てしまうことがあります。
私も高校そして大学生時代に美術部で、そして文化祭の出品として、美術品を創作したことがあるのですが。
油彩の絵の具は珍しい色だと千円は越しますし、キャンバスも大きくなると値が張ります。なので極端に大きなものは自作として展示した試しはありません。手のひらサイズの木彫りだとか、紙粘土でつくった謎のオブジェだとか。自画像も自分の顔の大きさぐらいまで。そういえば、私は誰かをモデルに描いたことはありませんでした。
極度に大きな創作物といえば、高校時代の生徒会広報部長として描いた文化祭の垂れ幕だとか、アーチだったのかもしれません。
着色の画材やスプレーは自分持ちだったはずですが、布や木材などは学校が費用で出してくれた覚えがあります。
この垂れ幕や創作品は実家で安置してありましたが、十年ぐらい前の断捨離で思い切って廃棄しています。
自分が描いた油彩画もありません。卒業アルバムなどの写真でそのありようを確認できるのみです。
団体展でみられる作品のスケールや技巧の凝り方に、個々人の懐具合がみえてしまうことがあります。
年齢が進むと作品も省エネ化していくのは、健康不安からくる労力の配分もあるでしょうし、終活も控えているからなのでしょう。目が悪くなると、線もすんなり引きづらくなりますよね。
ミケランジェロの晩年作を眺めると、あまりに往時の隆々しさとはかけ離れた肉体美なので脱力したものですが、今ならばなぜこんなものができあがったのか、理解できます。日本の絵巻物の書画は、年を重ねるごとに成熟して衰えないイメージが強かったのですけども、筆一本でひょいひょい描ける山水画はむしろ老成した芸術家ならではの味わいなのかもしれません。
(2024.11.04)