最近は、オタクという言葉の好意化もすすみ、なにか特定の領域に一家言あるひとはその時点で英雄視されてしまう傾向があるように感じます。
この場合のオタクとは、アニメや漫画、ゲームなどによらず、釣りバカとか、カーマニアみたいな、アウトドア気味の趣味もふくめての意味合いです。
ひとりの人間って、長い人生、ひとつの事柄だけをずっと追いかけることってないわけですよ。
突然、気が狂ったように何かにハマったり、そうかと思ったら飽きたり。また熱が再燃してしまったりとか。そんな繰り返し、そうじゃないでしょうか? 私はそうでした。
かつてこそ、趣味が合う人とは仲良くなれそうな幻想を抱いていたものですが。好きが重なり合うからといいまして、そのひととうまくいくかといえば、そうでない…というのはアニメ映画「アナと雪の女王」が語っていたとおりです。いや、あの王子は極端すぎるのだけども。
たとえば、おなじリンゴを好きな仲間がいたとして。
このふたり、AとBははたしておなじ果菜が好きかといえばそうでもなく。Aは果物を極めるためにいろんな果樹に手を出すし、かわいらしいフルーツをつかったお料理が大好き。女の子らしいからお裁縫も得意。かたや、Bはダイコンやニンジンなど根菜類なりが好きで、土で育てるものなので、工事道具や車両なんかにもこっていて。自然が好きだからキャンプもしたり。
こうなると、おなじリンゴが好きであっても、AとBとはまったくタイプの異なる人種で相容れそうにもありませんね。
いま、私は論争にならないように、あえて創作界隈で話題になりやすい作品やジャンル傾向をいわずに、食べものでたとえたのですけども。
ヲタク界隈でこういうことってあるんじゃないでしょうか?
もうちょっと、具体的にいえば。
たまたま、ある年に放映された仮面ライダー番組にドはまりしたBなのだけども。何年も、下手したら何十年もおっかけしている年季の入った特撮ファンの濃厚な考察にしり込みしてしまう、とか。あるアニメのなかのカップルを腐女子的に妄想してムフムフ楽しみたいだけなのに、その作品の硬派な検証をしたい古株マニアからは軽いとして迷惑がられてしまうとか。
つまり、Aがリンゴ界隈で先輩格(というかジャンル神とよばれるような存在)で、Bが新入りさんだった場合。
Bはリンゴ好きを極めるために、Aさんをまねて、その思考や実践をまなぶあまりに、そのひとの他のジャンルにも興味を憑依させてしまい。ほんらいは自分らしかった関心事を封印してしまい、なんとなく窮屈な思いをしてしまって、しだいにリンゴそのものを嫌ってしまう、なんて反動がおこるのかもしれない。
では、Bは自分の興味関心が最大限重なり合うような同志をみつければ、ハッピーになるのでしょうか?
たぶん、それは不可能に近い。その相手が、自分と全く同じ好きなもののままでいてくれるとは限らないし、へたしたら、自分が毛嫌いするようなものにまで手を出してしまうことだってありえます。
けっきょく、そうなると狂ったように愛している推しジャンルがあったとしても。
やがて訪れる見解や解釈の違いのための別離の痛みをさけるために、そもそも付き合いをひろげないほうが傷口も浅くなるし、不幸な時間を共有しなくてもいいとさえいえるのかもしれません。
これは自分の興味関心に異常なこだわりを持ちがちな人ほど、注意すべき点です。
自分はあの作品を愛していたのだけれども、恋愛にも、ロボットにも深く掘り下げられなかった。なんでもかんでも女の子同士のいちゃいちゃに節操がないのではなかった。そうか、あの作品に食いついた箇所が他人とはズレていたのだ、とやっと自覚しはじめたとき。私はこれまで、そういった傾向をなんとか好きになろうとして、話を合わせようとしていた自分がそのために、キャラをつくって乖離症状のようなものを起こしていたことにやっと気づきました。
これは趣味だけではなくて、仕事でも、なにかの組織上のつながりでもいえること、なのかもしれません。
自分の好きをこっそりと焚火にあたるように守りたい。
そのためには、雑多な興味、関心のためにさまざまな領域に浅くひろく顔をつっこむ。あえて隣接しなそうなジャンルを選んで、飛び地にしてしまう。そこでもけっして、深入りはしない。いつ、足抜けしてもいいように、ライトに楽しんでいく。はたして、それはオタクと呼べるのかどうか、疑問なのであります。ありますが、自分は気まぐれ屋で、なにかを極めて何者かになれるという見込みもないので、それでいい余生だと思っているところです。交流下手な人間ができる生存戦略なのかもしれません。
(2025.02.01)