2021年から導入される予定だった大学入試の共通テストが、いまだに混迷をつづけています。
大手教育サービス会社に委託した英語の記述式採点をやめるとか、国語の記述式に採点者の主観で点数にばらつきが出るのでよくないとか。記述式対策をとってきた受験生にとっては、安堵の声もあれば、不安視もあるでしょう。近年の医大入試の女学生差別といい、大学の入試制度には不信感が募るばかりです。
日本は進学だけでなく、就職もそうですが、入口だけ厳しくして出口が緩すぎます。
入学したととたん遊びほうけてしまう、入社したら自己研鑽せず組織の捲土重来に染まってしまう。大学の教官などは権威主義ですから、アカハラしほうだい。これまでは卒業生の進路にも知らんぷりで、社会での実務能力も身につかないまま気ぐらいの高い院生が、いざ働きだしたらつまづくのです。言葉数が多いので言い訳はよろしいのですが、行動力がいかんせんありません。
10年ほど前に英語の授業を小学校から採用しましたが、結果として、現場教員の負担を増やしただけでした。まともな国語能力を養う前から、海外の発音やら会話やらを身につけさせても意味がないのです。最近の報道では、日本の15歳の学力、とくに国語力がかなり低下していると報じられました。
しかし、学力が、いやそもそも知性が衰えているのは子どもたちだけなのでしょうか。
子どもを教える先生や親や、すべての大人たちが指導するに足る知性と陶冶された人格を備えているとは思えません。子どもの学力が低いのは、現に大人たちの学力が低いからでもあります。
学歴が高くても、高難度の資格をいくつも所有していても、職場でまったく役に立たない、ひとと対話ができないひともいます。文字を読むのは得意だが、計算は早いが、覚えのない他人の訴えにきちんと耳を傾けることができない。他人の弱みに想い馳せることすらできない。もちろん基礎学力は大事です。しかし、高級官僚のやたらと絵に描いた餅めいた教育改革は、ほんとうに世の中で必要な人材育成になっているのかという疑問が湧きます。入試制度改革のなかで飛び出した大臣の地方の貧しい学生をないがしろにした発言は、家が貧しく塾にも通わず大学進学した私からしたら、都会のエリート家庭の傲慢さにしか思えないわけです。世の中を動かしている中心が自分たちだと思っているのです。車はエンジンの性能がすばらしくても、すり減っていくタイヤがなければ走らないことを思いいたっていないのです。
私は職場では自分の学歴や資格のことは、ほとんど口にしません。
与えられた仕事が満足にできないのに、そんなことで自己宣伝をしてもなおいっそう嫌われるだけです。高卒でキャリアが長いけど、多くのひとと接して部下を掌握するのが上手い上司もいますし、気分をもりあげるのがうまい先輩や、困っていることをすぐに察して助けに来てくれるひともいます。優秀だけれどもモラハラ気質、ミスを責めるのが多くて、いっしょに働きにくい、いたくない人もいますよね。学校のテストはひとを序列化し、階層に分け、むだに争わせます。教師も、医師も、なんとか士業も、作家も、政治家も、ひとしなみ「先生」たる人物は他人を見下すのが上手い人種です。しかし、職場や家庭では、ひとはみな違っている者どうしが補い合いながら暮らしていかねばなりません。仕事のできないひとでも追い出してしまえば、仕事のできる人が雑用をかかえ、組織が疲れてしまいます。
最近では、AIを使える高度な人材がうんたら、という声も判で押したように聞かれます。
しかし、AIは人の気持ちを慮って優しいいたわりをかけることができません。人間は決められたプログラムのなかで動いているわけではありません。東大を出た官僚が家族を手にかけたり、エリートが不正を働いてしまったりする。
頭の良さをテストで保証された人材なのに、なぜ、そんな過ちを犯すのでしょうか。
それは頭がいい、自分が優れていると思い込み過ぎている人は、そのプライドのために他人をないがしろにして、いつか世の中からしっぺ返しをくらうからです。
その人の知性や教養について、言葉づかいはもちろん、ふるまいや周囲に与える好感によってわかります。他者への感情を抑制できなければ、深い知識や豊かな経験があっても能力があるとはみなされないのでしょう。能力も時代によりけりで、年数経てば廃れてしまうものもあります。どんなにすぐれた技術をもっていても、他人をどやしつけるようひとからは、人心が離れていってしまいます。英語がしゃべれて頭のいい経営者がいるが、社員がすぐに辞めていってしまう会社はたくさんあります。ハードルが高すぎて、息抜きができないからです。個人の能力と、組織ひいては社会全体の力を伸ばすことは違うのです。一流のプレイヤーが監督になると選手を駄目にしてしまうこともありますよね。
不透明で、不安で、不思議なことばかりが生じ続けるこの世の中で。
答えの見つからないことはたくさんあります。すぐに解決のできない事態に遭遇しても、心身を平成に保つ努力ができることが、健やかな人生につながります。
むだに入試制度をいじってしまうよりも、今の教育内容や教師にゆとりある働き方をさせて教育現場の荒廃をせきとめるほうがいいような気がします。学校に通っているだけではひとは頭がよくなるわけでない。ひとと関わりながら、話し方や立ち回り方を学んでいく賢さについて、われわれ大人こそ見本を示せるように学び直すべきではないでしょうか。いま、大人が子どもとの関わり合いができないせいで、若者がSNS上のトラブルに巻き込まれて犯罪沙汰になってしまうのも、目に見える数字や反響ばかりを追いかけて人を分別していくからに他ならないのです。教育とは、ひとを無能か有能かに仕分けしていくものではありません。