手塚治虫の大作漫画『ブッダ』には、牢屋にいる老人のふしぎな一節があります。
かつて傲慢な王だった男は、息子に権力を奪われ、投獄されたのです。誰もいないはずの孤独な石牢を訪れたブッダは、お前には一人の味方がいる、と伝えて去っていく。男は次第に足もとに生えた一草に愛着がわき、友として語りかける。すると、その雑草は女の妖精の姿にみえてくる。門番からすれば独り言をつぶやく気狂いにしかみえないが、老人のこころは穏やかになり、やがて死を迎える…。
私の親族には、教育長まで勤め上げたが気難しい人間がいました。
子どもは立派な職業に就いていますが、父の権威主義と学力偏重でしごかれた恨みがあったのか、独立して実家に寄り付かない。妻とも距離がある。病院では看護師にも怒鳴って嫌われていたらしい。亡くなった後に大量に残されていたのは、美しい盆栽だったそうです。毎日、松を刈りこむことで鬱屈した何かを晴らしていたのかもしれません。彼はその愛情を家族に向ければ、晩年の過ごし方は違ったものになったのでしょう。しかし、その血縁である私は、この高慢な大叔父の人を寄せつけない境地がわかってしまうわけです。
私に園芸の趣味はないため、花や草を育てて楽しむことはありません。
食べものとしての野菜や果樹ならばいざ知らず。
若い頃、当時の勤め先から朝顔か何かの鉢植えを頂いたものの、真夏日に水やりを怠り、すぐさま枯らしてしまったことがあります。
それぐらい、生きものの世話というのは苦手でした。犬や猫のように体温があり、反応があるのならばよいけれど…まあ、そんなものぐさです。
最後に住んだ独り暮らしのマンションは抜群に日あたりのいいロケーション。
そこで数か月間、無職で引きこもりの日々だったある日、ふと思い立って、ニンジンの葉っぱを育ててみたことがあります。お椀の水に浸しただけの、水耕栽培。小さな葉ではありましたが、二、三本だけ伸び、なかなか美味でした。どうして、あんな小さなものなのに、おいしいと感じたのでしょうか。それは、当時の私がとても孤独に包まれていたからに他ならない。毎日、変わり映えのない私の世界のなかで、ゆいいつ、動いていたのがその葉だけだったのです。
そのマンションにはコンクリ舗装の駐車場があり、その上に土を盛った畑で作物が栽培されていました。大家さんに獲ってもいいよと言われ、頂いたことがありましたが、それの味はなぜだか覚えていません。ていねいに鍬を入れて、肥料も撒いて、育てた野菜がまずかったはずはない。けれども、おそらくコマツナだったかと思うその葉物の色もかたちも思い出せないまま。
窓越しの陽ざしを浴びたあのニンジン葉はなぜ、あんなにおいしかったのだろうか。
蛍光色に近い明るい透き通るような翠の色まで、くっきりと目に焼き付いています。パセリのような小さな葉がふたつ、みっつと増える。ひと晩眠っている間に、驚くほど、間延びしていることさえありました。植物はひとの感情を吸い上げて育つのではと疑ったほどです。葉に指先を触れて撫でると、なんだか愛嬌ある姿にさえ見えます。ある程度まで育ったそれを食べる日はお別れの日でもあります。だからこそ、おいしくなければならない。思うに、それは、当時に私とともにあの部屋に閉じこもって同じ無為の時間を過ごした同志だと感じあっていたから、なのかもしれません。
今年に入って、ふとその時期のことを思い返して。
お店で買ったネギを余った鉢に植えてみることに。階下に降りるたびにその裏口に顔を出すと、毎日わずかですが、大きくなっています。ときには折れまがり、二またになったりして。あたふたと迷いながら、それでも空を掴もうと伸びていく。けっして売り物になるような整えられた形ではないにもかかわらず、雑然としたその成長力をぼんやりと眺めていると、何か自分も髪の毛の先をひっつかまれて背筋を伸ばせ、胸を張って歩け、といわれているような気がするのです。
調子をよくした私は、さらにネギをの群生を増やしてみることにしました。
今日は隣のあいつに負けているぞ、こいつは途中でへこんでいる、おやおや、ダークホースで急激に伸びたのがあった。飽きずに観察しているとなかなか面白いもの。植物の生長に目を留める機会もないまま、慌ただしく玄関の出入りをしていた時期にはなかった楽しみが増えたのです。
本日は、その家ネギをめでたくも収穫。
市販のネギよりもはるかに薄く細め。それでもとれたては新鮮で、みそ汁の上にばらまくと美味。パック詰めされて売られている牛肉や鶏肉よりも、丹精込めて育て上げた家畜を解体して、食卓に並べたときのおいしさ、というべきなのでしょうか。
自分で育て上げた、つくりあげた、達成感。
それだけではなくて、大きくなるにつれて側で過ごした思い出。その重さや愛おしさで旨味が増す、ということなのかもしれません。まだ若い葉は赤んぼうのようなもので柔らかく、甘くもあります。伸びざかりのしなやかな命を惜しみなくいただく。どこか尊い所業のようにさえ思えます。
その一口ひとくち噛みしめた葉や茎のなかに、それを育てる土の成分があって、そこには何万もの微生物などの働きが関わっているのです。
月の大地のように、作物自体が育たないであろう星もあるなかで、水や土がある地球はなんと豊かな星なのかと。宇宙の始原にあった原子の集まりから連綿とつながって編み出された生命のシステムの極致を、ほんのわずかな葉物の生長に感じ取ることができるわけです。そんなささやかな、他愛のない思い付きを得た晩秋の午後に、私は生きているっていいな、としみじみと思ったのでした。これまで悩んでいたことが、星空のなかにうかぶ小さなきらめき星のような、ささいなことに思えてきます。
翠を活かすということは、ひるがえって、自分をも生かす道なのでしょう。
春先から秋のはじめにかけて、特に真夏日には猛威をふるう雑草の処理に追われ続けて疲弊した日々でした。翠の侵食はとても恨めしいもの、打ちのめすべきものに思えてならなかったのです。しかし、その獰猛さがなければ、私の口にはおいしい野菜も果物も入ってはきません。どうにもならない自然のふるまいと共生していく覚悟を、帯の目を結びなおすかのように、新たにしたのでした。
日々、なにか生きものを育てている方ははたしてどんな心持ちなのでしょうか。ひとの人生の数だけ、寄り添う翠にもさまざまな育ち方があるのでしょう。
(2024.11.14)