何年か前のことだが、「無職転生」とかいうタイトルのウェブ漫画のさわりだけを読んだことがある。いじめられっこでひきこもりの30半ばぐらいの男性がトラックにはねられて、なぜか魔法と剣のあるファンタジー世界に転生。しかも、見目カワイイ美少年で、周囲には自分好みの美女がわんさか。ハーレム状態のなか少年は魔法の能力を開花させ、その世界の勇者となっていく。仔細は忘れたが、まあ、そんな内容だったかと思う。
この類の転生したら人生好転しちゃいましたノベルは、その投稿サイトの名前をとって、「なろう小説」と呼ばれ、こうした類例のノベルを書こうと、日々、自称字書きさんたちが健筆をふるっているらしい。なかには、好評で公式レーベルで出版されたり、アニメ化されたりもする。
こうした内容の書き手は、じつは仕事にあるいは家庭に、ひっくるめて人生そのものに情熱をうしなった中高年ではないかともささやかれている。要するに就職氷河期世代である。この世代の現実逃避者は圧倒的に多い。私もその一人だった。
やり直しのきかない、這い上がれない、すべり台社会。
現実では報われないから、物語の中でだけ、威厳ある王様になり、愛されるお姫様になり、武勇すぐれた勇者になり、軍師や参謀になって戦争に勝ち、大富豪になって豪遊し、領主になって民をおさめ、母や父になってすぐれた子の養育者になる。
だが、現実には「王」や「勇者」といった職種はない。
会社経営者や、自衛官や、組織内のアドバイザーやら、なんとなく連れ添った夫婦関係はあろうが、そうした地位や職分、そして家庭を維持するには、それなりの努力も時間も、そしてお金も必要なのだ。勉強さえ真面目にしていたら褒められるのは学校でだけ通用する価値観だ。人間関係を築き調和する能力がなければ、人は孤独で誰も助けてくれない。働くことはお金を稼ぐことは社会の一員として人たるに値する条件であり、ゲーム世界のように魔王に打ち勝ってお姫様と栄誉を手にするためではないのだ。
では、なぜ、ひとはそうした子供だましな物語を好むのだろうか?
中年になってまで、ファンタジーを求めてしまうのだろうか? なぜ、自分から人を愛さず、信じもしないだろうに、必然的に困っている自分がトントン拍子に救われ、頼られ、愛されて、好人物に大物になっていくような夢を見るのだろか。 そうした夢をみればみるほど、ひとは自分の現実から遠ざかり、偽りの自分をでっちあげてウェブ上でひきこもっていく。
現在のこうした転生したら云々のなろう小説の源流にあるのは、いわばシンデレラやらわらしべ長者やらの童話であり、また少年ジャンプ漫画のような努力したら友情で報われ、かならず勝利するフィクション、魔法少女アニメのように何でも変身できて何にでもなれるファンタジーである。特撮もロボットアニメも、ラブコメも、とにかく日本の創作はこうした憂さ晴らしの文化を生み出すことにかけては、世界でも一目おかれてしまった。最近では主人公は凡人からのレベルアップではなく、あらかじめ素質のあるチート能力者という設定でないと読まれないらしい。泥くさい修養期間はすっとばして、ハッピーだけつまみ食いしたのだ消費者は。なんだか、それももやもやする。しかし、労働で疲れた消費者にはインスタントな味わいが好まれるのだ。
こうした憂さ晴らしの夢見がちな物語創作者と対局にあるのは、至極現実的な労働者だ。
彼らは、好きでもない仕事でも生活のためならばと受け入れ、けっして自分が組織内でトップではなくとも、評価が低くとも、自分の役目を理解して働いていく。組織が円滑にまわるならば、個人が控えるべきところは控えるのが言わずもがなの組織の力学である。私はそれこそが、ほんらいの人間の天性にかなった美しい働き方だと思う。いくら能力が高くとも、ひとりきりでできる仕事には限界があるからだ。
無益無体な生き方をした人間がある日、生まれかわったかのように、目覚ましい働きを見せる。そんなみにくい芋虫がいきなり蝶のようにはばたく、ご都合主義の奇跡は訪れない。若手将棋の名人でさえも、はなっから天才になるように生まれついたわけではなく、蛹のように力を養った期間があったはずなのである。だが、怠け者でずっと一発逆逆転ホームランばかり狙い続けるひとには、彼のような成功は持って生まれた強運だとか、素質だとか言うだけなのだろう。大谷選手が大リーグで活躍できるのは強靭な肉体と運動能力だけではなく、空いた時間の球場のゴミ拾いをするという、その心映えなのであろう。球場を神聖な社と考えて、膝を折ることさえ厭わない謙虚さにほだされて、多くの人が彼を応援するからこそ、結果を残せていけるのだ。SNSでバズ狙いをしながら時間を浪費し、いいね下さいとアピールしているからではない。けっして一長一短に、いまの優れた彼がはじまったのではない。
「なろう小説」が陳腐に思えるようなひとは、すでにミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を読んでいるに違いない。これもまた冴えない太っちょのそばかす少年が架空世界へ迷い込み、その世界のたくましい勇者としてつぎつぎに成功を重ねていく。だが、驕りにとらわれた彼は友人の忠告にも耳を貸さず、おそろしい暗路に陥ってしまい、しまいには現実の自分の名さえ忘れそうになるのだ。彼を救ったのははたしてなんだったのか。そして現実界にもどった彼は父親と和解する。トルストイやドストエフスキー文学もそうだ、が、こうした名作を読んだことのある人と、そうでない人とでは、壮年期以後の人生が違ってくるのではないかろうか。少なくとも、私はそうだった。少しは世を恨む認知のゆがみが矯正されたのだ。
私がこれらを読んだときに思ったことは、いま商業ベースで人気な、人の欲望を喚起するような物語だとか、売れ筋で文学賞狙い、あるいは奇をてらった小説などよりも、まず人類史に残った古典を呼んでおかねばならないということだった。
ウェブ上の自己承認欲求が肥大した物語に毒されると、自分の人生上の指針が歪んでしまうと恐れたからだ。
ところで転生したら来世では人生よくなるジュブネイルだとか、別れた恋人とは結ばれるロマンスだとか、思春期の拗らせ願望がつまった物語に弱いのは、大人だってやはりそうで。「なろう小説」ほどではないにせよ、多くの文筆家でさえ、転生をテーマにした名作を発表してきたものだった。三島由紀夫の豊饒の海シリーズしかり、遠藤周作の「深い河」しかり。仏教の輪廻転生譚や、キリスト教の復活も、死後の世界への希望を見出させるものであろう。
90年代ではいえば、美少女戦士セーラームーンがまさにそうだった。平凡な寝坊の少女が美少女戦士に変身して戦うまではいいが、その後、彼女がミレニアム王国の女王に即位し、イケメン王子の夫がいて、子宝にも恵まれて、美人揃いの部下たちに囲まれて…なんて、まあ少女の究極の夢ではないか。ちょうど、男女共同参画が謳われた時代だったから、な猶更当時の世相にヒットしただろう。だが、当時のティーンエイジ、すなわちわれわれ就職氷河期世代でセーラームーンのように家庭も地位も手に入れたような女性はほとんどいまい。セーラー戦士たちにぞっこんになった男性たちも、同様ではないか。ファンタジーの心地よさから卒業が遅れたばかりに、人生で何かを失い続けていたのだ。その時間はもう取り戻せない。
転生したら、あの人が生まれ変わってくれたら…。
そうした人生の闇に直面したときに現れたのが、私にとっては「鋼の錬金術師」と「神無月の巫女」だった。ハガレンは錬金術で母親をよみがえらせようとする兄弟が体を失い、とりもどす旅に出る。エルリック兄弟は軍部に所属し、数々の戦いを経て、やがて仲間ともども世界存亡の危機に立ち向かう。彼らが投げかける言動は、多くの生きる勇気を与えて、全世界でも大ヒット作となった。
神無月の基本にあるのは2000年代当時はまだ禁忌扱いだった女性どうしの恋愛劇だが、その背景にあるのは前世からの因縁で結ばれていた少女という設定だ。
その後、原作者とアニメスタッフによって、関連作がいくつか漫画なり、ウェブ小説なり、アニメ化なりもされたのが、神無月の巫女以後の「姫子」と「千歌音」は結ばれることもあるが筆舌に尽くしがたい苦難が立ちはだかったり、互いに憎悪を招いたりもする。また最終的には、百合的エンドとしてはいささか不本意な結末に終わったと見なされるのもある。
だが、そもそも人生とはそういうものではなかったのか?
思いどおりにならない、ままならない。それが人生。なぜかというに、この世界は多くの意思をもった命のぶつかりあいで成り立っているからだ。それぞれが不利益をこうむりながら、折り合いをつけている。こんな会社なんてクソだ、俺はもっと立派な仕事ができると思いながら働いているし、配偶者に不満がありながらも家庭を壊さぬようにバランスをとっている。日本人はそもそもそういた忍ぶ美学をもっていた。
死んだ人間があっさり生き返ったり、十数年でよみがえったり。いつまでも忘れずに独り身でいるのも美しいが、はたしてそれが本人のためになるのか。死者があっさり戻ってこれるならば、お墓も葬式もいらないのだ。戦時中、婚約者が戦死し、なくなく意に染まぬ結婚をした女性だっていただろうし、女学生で心中を図ろうとしたが裏切られて生き残ったなあんてことは、その実、珍しくはなかっただろう。
だが、故人を悼む儀式や霊前はなんのためにしつらえられるのだろうか?
それは、亡くなった人に日々誠実に生きていること、生きていることを感謝すること、胸を張って明日へと進むことを誓うためではないのか。
「神無月の巫女」というアニメは、転生を安易な人生やり直しとは位置付けていない。
実質、社会から非難された拠り所のない女性どうしが月の社へ閉じこもって永遠の愛をむさぼるのでもなければ、ひたすらに待ち続けたので都会の交差点でばったり運命の再会を果たしたというロマンスではない。それは、これまでの公式側の残した発言やその後は発表された番外編小説などをひもとけばよくわかる。来栖川姫子は姫宮千歌音に逢っても恥ずかしくないような、後ろ向きである考えを捨てた爽やかな大人びた女性となっていたし、姉妹になっ転生した別の漫画では、彼女たちは私怨ではなく、神の愛を人間世界への愛へと向けるために憎悪をこえた選択をして、その人生を消滅させる。
また、狭い島の掟から逃れて現代版の恋人となったふたりであるが、堅実に社会人としてしっかり働いて、堂々と夫婦ものになったことがわかる最新版の「姫神の巫女」は、死んでから転生したわけではなく、生きたまま相手の人生を祝福した愛があったが故に幸せをつかんだというかたちになっている。
そうした巫女の生きざまは、私に辛いことがあっても投げやりになるのではなく、他人を信じて心を入れ替え、過去の自分の意識を否定して生まれ変わった気分で新しく生き直そうとする勇気を与えてくれたのだ。
もちろん、その物語を読んで、そこまでは思わないという人だっているだろう。
だが、物語をどう人生に活用するかは人それぞれだが、ただ世知辛い人生の慰撫のためだけにフィクションを求めて逃げても、自分が王様になった創作ごっことを続けても、人生は明るく開けないということである。
そんなことを肝に銘じながらも、私は休日になれば、自己の楽しみのためだけにせっせと転生が主題の二次創作小説を書き綴っている。それは私だけの救いであるからだ。
(2023/07/02)