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Channel: 陽出る処の書紀
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組織力に頼りすぎることのメリット、デメリット

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私はひとつの会社での勤務年数よりも、個人事業上の実績のほうが長い。
我流で仕事を処理してきたがために、勤め先での遣り口に思わず戸惑うこともある。勤め先といおうか、被用者としての人生しか歩まなかった方がたとの、認識の違いだ。

よくビジネス本には、「他人を巻き込んで」だの「組織パワーを活かして」だのという文言が並んでいる。
これは私にはいつもいつも引っかかる部分であって。なぜならば、学生時代の研究者肌だった自分も、その後の労働者人生も、個人事業主としての部分も、自分は自身ですべて処理をしてきた、と思ってきたからだった。

そのいっぽうで、私は自分の仕事の責任範囲というものを明確にしたい方で。
他人のやらかしたミスは極力背負いたくはない、と考える。これは誰しも考えるものだが、私ぐらいの年代の、業務上の責任者や管理職になってしまうと、そうはいかない。誰かが誤記入した書類のために、連絡不備でこちらに伝わってこなかった情報のために、うっかりミスの伝票起票のために、取引先じたいのそもそもの無茶ぶりのために、部門間の軋轢で板挟みになったがために、諸処の事情で謝罪せざるを得ず、かつ、尻拭いをする羽目になることもある。

会社員として働くことは、けっして独りでは仕事が完結しないことの連続である。
自分宛ての電話を誰かに代わりにとってもらえるいっぽう、部門間で仕事の調整に駆り出されることもある。掃除や買い出し、郵便物受取などの雑用もこなさなくてはならず。上司の朝令暮改で仕事の方針が180度変わってしまったりもする。マイペース型の人間にはなかなかつらい。

そのいっぽうで。
個人事業として何もかも責任が降りかかり、時には取引先が契約不履行を働くことも多いのに比べ、毎月の売上が多少イマイチでも給与が保証され、賞与も支給されるサラリーマンは、なんてよいのだろうか、とつくづく噛みしめている。

私の親族には、被用者としての人生が長い者が多い。
大企業正社員や公務員としてのキャリアが長く、こうしたゼネラリストの職場では、つねに組織での宥和と個人を殺すことが身についている。それがたまにうらやましいこともあるが、その弊害として、かなり楽観的と言おうか、他人任せというか、自分で問題を解決しようとしないタイプが多いのではないか、という気がしてくるのである。

私の正社員としての勤務先はおおむね中小企業が多く、しかも経営者のお膝元の部門が多かったので、直接その会社の動きがわかる位置にいた。そしてまた、自分の職種ではやらないことまでやらされてしまうものだった。

ところが大組織にいる人間というものは、仕事があまりに細分化されているので、自分の仕事はここまで、後は誰かに投げればいいや、と思いがちである。
あるいは、まれに自分より優秀な部下が下についたり、同僚として仲良くなったりすれば、なんだか自分が偉くなったのだと思いがちにもなる。これがパート社員や派遣社員などの安くこき使える人材ならば、なおさら結構だろう。面倒なことをおしつけて、自分が上なのだというマウンティングもできるからである。

組織力として事にあたるのはなんとも頼もしい。
個人のマンパワーでできることは限られているからだ。

だが、実際に、自分のできる範囲のことを狭め、能力を磨く失敗の機会を経ず、いつも誰かに責任をかぶせてくる。そんな働き方がしみついてしまったら、実際のその恵まれた職場を失ったときに、弊害が出るのは真っ先に自分ではないだろうか。

大企業や公務員勤めの方には、他人が自分に頭を下げるのはあたりまえで、手伝ってくれるのも当然で、自分よりもネームバリューが落ちる会社や、底辺だと思う職業に勤めるものはいくらでも見下してもいい。口には言わぬがそんな態度が暗ににじみ出ていることがある。

私が思うに、このゆがんだ思考をいちばんに持ちやすい職業が、学校教師と政治家ではないだろうか。何かをしてもらったときに、自分が与えられる、認められるのはあたり前だから、感謝をしない。口先では述べるが、実際はお前たちは俺たちの引立て役だと言わんばかりの態度である。お前の能力を俺が活用してやっているのだぞ、と言わんばかりの態度である。こんな態度ではたして、下のものが伸びるだろうか。互いの信頼関係が築けるだろうか。

多くのビジネス書には、会社員に「一人で仕事を抱えるな」と諭している。
キャパオーバーになるのも、過労が問題になるのも、組織内での仕事の調整がうまくいかないからだ。コミュケーション能力が高いとうそぶきつつ、実際は面倒なことがあるとすぐ逃げる人はいるもので、側にいる者が泡を食う。

「一人で仕事を抱えるな」は、責任ある仕事をするのはよいが、自己判断で処理してしまって、取り返しのつかない事態になるのを防ぐための至言である。

実際に、要領よく他人に仕事をおしつけて、自分だけはノー残業で帰ったり、暇を持て余してスマホを眺めているような人間が乗っかっていい言葉ではないのである。その仕事を押し付けられた者が感じる精神的苦痛を想像もできない人間が、組織内で人の上に立てるはずがない。新規の契約件数ができて見た目もいいのに、人使いが荒いので社内で嫌われている営業マンが、このタイプである。自分は忙しすぎるから、他人の手を借りるのは当然と思い込む。頼まれた方の都合や状態などは全くの虫である。

組織として他人の泥をかぶったり、しなくてもよい仕事が増えることはありうる。
しかし、やってもらって当然とは思わず、適宜感謝の意を表明したり、自分も代わりに相手の作業分担をするなどの気遣いをしないと、自分本位な人間として社内評価はさがるばかりだろう。私と同世代の、仕事ができるとわざわざ大袈裟に言いふらす人間にはなぜかこういう手合いが多いのだが。

いま私は会社員だけの話をしたが、組織に頼り切りになるのは、個人事業上の縛りがきつい地域や業界であっても同じことである。
上へ、横へ倣えの意識で、自分自身のなにがおかしいのかも考えようとしない。つねに旧態依然の前例主義で、同じルールを守ることばかりの汲々とする。型をまもるのはよいが、それにこだわると、疑ったり、改善したりもしくなる。それは恐ろしいことではないだろうか。

そして、ふしぎなことに、こうした組織人間に育てられた子どもも、高学歴なはずなのに、自分で問題を解決できず、教科書にあることや誰かから言われたことしか理解できないことが多い。あるいは、ネット上にいるユーチューバーや芸能人やら、楽しそうで目立つ人の言葉をうのみにしてしまう。子ども時代は、いちばん集団生活になじむことを強制される時期だからだ。それもまた恐ろしいことである。

(2022/07/17)







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