現代ビジネスという情報サイトで、映像コンテンツを倍速視聴するために若者が読解力を失っている、との趣旨の記事が話題になっていました。
映画をDVD視聴で飛ばし見した経験は誰しもあるはず。若年層だけの現象ではない。しかし、その記事によれば、彼らが粗筋だけ押さえるべく大量視聴するのは、仲間内で話題作を見ないといけない、という縛りがあるため。個性的であれという外圧から、キャラ付けとしてティーンが目指すのがオタクなのだ、と。
ここでよく指摘されるのが、オタクの好感度の変遷。
映画やドラマ、小説はともかく、アニメや漫画好きはかつて陰気なインドア趣味として嫌われていましたし、某幼女連続殺害事件の犯人像もあってか、偏見をもたれやすいものでした。私も二次創作ふくめオタク活動をリアル世界で口外したこともありませんし、今でも書店で百合ものの漫画を買うのがなんとなく恥ずかしいです。ところが、現在の若者はむしろ逆でオープンになっている。背景にあるのは、爽やか系タレントが萌えアニメ好きを公言したり、日本の漫画やアニメのクリエイターの業績が世界的に認知されはじめたりしたからでしょう。アニメがきっかけで宇宙飛行士になったり、サッカー選手になったと証言する一流人も増えました。
しかし、同じサブカル好きでも、古参のオタクと若手のオタクでは行動が異なる。
古い世代は少ない作品を舐めつくすようにじっくり味わい考察する学究肌。しかし、若手は推しキャラの関係性やシチュエーション萌えで、イベントにもグッズにも惜しみなく散財し、それをSNS上で競いあう。仲間内で盛り上がりが大切なので、ブームが去ると一斉に他の話題作に移っていく。すべてがそうだとは言い切れませんが、おおむねその傾向があるように見受けられる。
たしかに、SNS上でとある作品を「必修科目」で「履修」せねばならない、とかいう言葉をよく目にします。
毎日、信じられないくらい大量の作品についてつぶやいたり、情報を共有しあったりしている。自分の好きが友だちの好きと狂いなく重なっているか確認しあっている。仲間外れにされないために、必死に消化して、苦手があるのに遠慮して。そうした趣味嗜好のネットワークから逃げられないという。作品の作り手からしたらインフルエンサーが自動的にPRしてくれるので有難いけれど、どこかねずみ講くさいというか…。すぐに買わないとファン失格だよとか、誰かに監視され急かされながら消費するコンテンツが楽しいはずがないですよね。
私の感覚からすれば、サブカル趣味に関わらず、ある作品や事柄を強烈に好きになるのは、どうしようもない執着で、(特に作品内に過激な表現があった場合には)それに時間や金銭を費やしてしまうのにもどこか後ろめたさがつきまとうものなのです。決して大手を振って褒めていい活動なのではない。誰かに強制されてそうなったのでもなく、望んでオタクになるものでもない。人気のない路地裏の地味な花でも惚れ込んだらそれについてしみじみと語る、それがオタク。ところが、最近はそうでもなく、セルフブランディングに利用できるか否かで好きになる傾向が主流。メディアもそれを見越して、流行に乗せようとしている。
もちろん、私も子供時代は好きだったアニメや漫画はメジャー作品ばかり。
クラスメイトはジャニーズや歌手の話題で持ち切り。声優さんのアイドル化の端緒が見られた時期だった。彼らは雲の上の存在で、テレビや紙面という選ばれた場所に降臨する偶像で、決して気軽に握手できたり、CDやら本やらを手売り営業してきたりするバイヤーではなかった。大袈裟に言えば、自分たちと同じものを食べているとも思わなかった。古のオタクが憧れていたのは、オタク自身ではなく、愛玩対象そのものので、現代のように主客転倒してはいなかったのではないでしょうか。
人間ある時期を過ぎると、自分の後輩とも子どもとも思えるアニメキャラを邪心で見られなくもなり、ご都合路線に突っ込みたくなり、ファンタジーのごちゃごちゃ設定が理解できなくなり、淡い少年少女の恋心に寄り添えなくなり、萌え絵柄に拒絶反応を起こしてしまいがちになります。アニメグッズを大量買いするよりも、自己投資したり、健康にいい食事をしたりしたいと願ってしまう。そもそも税金の負担や生活費、万が一の備えを考えたら、余裕がなくなってもきます。
もとの記事が週刊誌情報サイトなので、どこまでこの若者論が実地に見合っているのかわかりかねますが。若い世代がオタクになることでアイデンティティの確立を図っているのは、モラトリアムを許さない高齢化社会の弊害なのかもしれません。高校生で起業したり、小学生で作家になったりアイドルになったり、スポーツや将棋などでは記録破り。各界で大人顔負けの異彩を放つニューフェイスが生まれている。成人年齢が引き下げられ、少年法の改正も俎上にのぼる。幼年期からのお受験も盛んで、周囲から何者かたれと発破をかけられ続けている若年層がすがるのが、萌え文化コンテンツに詳しいオタク像なのかもしれません。努力をしなくても、手の届きそうな畏敬の対象。SNSでつぶやいた感想がバズるだけで手っ取り早い成功体験が得られる。そんなことを繰り返していたら、まじめにコツコツ能力を磨こうと思わなくなる。いや、そもそも、学業や部活動を言いなりに頑張っていても人生上手く回るわけではない、先行世代の失敗事例を知りすぎたための諦念なのでしょう。
ただ中年期以降になると、サブカルだけに詳しい自分の立ち位置に迷いやすくなるので、好奇心の幅はある程度広げておきたくなります。好きな作品が終わったり、飽きてしまったりしたときに、放心状態になりやすいので。同じ作品を好きであっても、深い沼に嵌っている状態からすこし浮上することで、冷静にその瑕疵を判断できることもある。
それと私がいささか危惧しているのが、オタクコンテンツが世界を変えると過信されすぎているきらいがあることです。
たとえば、最近はLGBTへの理解が求められていますけども、単純に百合やBLものの描写が増えたら認知されているというのは早計ではないでしょうか。ジェンダーレス含めすべての男女が生きやすい社会は、個々人の振る舞いにかかっているのであって、それをネタにした作品がなんでもかんでも世に売れたらいいのではありません。むしろ倫理として達成されていないからこそ、描かれたものに学ぼうとする。若くて可愛い女ならば殺人をしてもセクハラをしても許されるなんて、曲解される恐れがある。ゆきすぎたブランド化が進むあまり、ゆがんだ欲望の免罪符やイデオロギーの先鋒担ぎに利用されるコンテンツは、かつての戦争絵画と同じで危うさを感じます。