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ゴッホにしてゴッホにあらず、謎の肖像画(二)

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ある画家が描いたものが自画像ではないからといって、さらにいえばモデルをはき違えていたからといって美術史を覆すほどの大発見となるわけではないだろう。フェルメールの真作とされていたものが、巧妙な後世の贋作であったこと(美の復讐師 ハン・ファン・メーヘレン(前)美の復讐師 ハン・ファン・メーヘレン(後)参照)よりも驚くべきことではないし、なにしろ描かれた主題こそが画家の意図よりも重んじられた前近代の神話画や歴史画と異なって、そこに描かれたものが変わってしまおうともその絵画の価値を損なうものではないのだ。





《古い靴》1886年、フィンセント・ファン・ゴッホ美術館


哲学者マルティン・ハイデッガーは『芸術作品の根源』(関口浩訳・平凡社・2008年)でゴッホの描いた古靴をとりあげて、すばらしい思考を巡らせている。
それはおよそ要約すればこのようなものだ──靴は道具として履かれ役に立つことで靴となり、靴のことを考えたり、眺めたり、感じたりすることが少なければ少ないほどに、それが靴らしさである。その靴を描いたファン・ゴッホの絵には不確定の空間が広がっているだけで、それがどこに帰属しているのかはわからない。だが、この作品のなかには農民たちの労働の辛さや喜びや、土の匂いや湿りや、大地の静寂などなど、人間が大地と関わる世界の手触りのいっさいが保存されている。なにげない道具ひとつを描くことでも、物それ自体にまつまわる価値を感じさせるこの働きこそが、まさしく芸術作品の力に他ならない──。

ハイデッガーの大部な論考『存在と時間』については数頁しか読みすすめられず挫折したものだが、なぜか短いながらも的確な『芸術作品の根源』のこの一節だけはよく覚えている。この論考はとっつきやすいだけでなく、ハイデッガーが思想の転換を迫られた後期を代表する論文ではなかろうか。

洒落た女性や紳士にとっては、靴はただ履けばいい道具のみならず装飾効果もあろう。
しかし、一足の靴を眺め入って、その裏側が踏みしめてきたものの重みや広がりを感じたことがあるだろうか。とりわけ、日本のように屋内に外履きを持ちこまない文化にあっては、靴に付随する汚れなどはすぐさま払いのけられるべきもので、それをじっくりと思いいたすこともない。
ハイデッガーがそれを汲み取ったのは、ゴッホがこの一枚のうちに持ち主の心理や生き様を投影しきったからに他ならない。ものを描いてうまいとうならせる絵は、それが写真のようにそっくりに再現されたからではない。そのものになにかを語らせているからだ。

そのゴッホ作の解釈をめぐっては、美術史家メイヤー・シャピロによって、百姓の靴であったというのはハイデガーの勝手な思いこみに過ぎないと論破されているのだが、その靴がいったい誰のものであろうがなかろうが、ゴッホのなにげない静物画であればこそ、見る側に迫ってくる信念があったことに変わりはない。稀代の哲学者にすぐれたインスピレーションを与え、かの論考を生んだということは揺るぎなき事実なのだ。なんらかの小難しい専門用語で括られるだけが哲学ではない。身近なありふれた事象にひそむ定理を見出してこその哲学ではないのか。私は靴についてこれだけ豊かに語られた文章をいまだもって知らない。何気ないことについても豊饒な思想を紡ぎ出す、それが哲学なのだから。

ゴッホが亡くなったのは、時に1890年。
美術史は新しい胎動──それはのちに批評家によって、もしくは美術家によってアヴァンギャルドと呼ばれる──を抱えていた。もしゴッホがわずかに長生きしていたとしたら、彼の芸術は正しく理解されただろうか。多くの20世紀の美術家たちにならい、彼もまた等しく当時最先端の画風に染められていただろうか。私にはそうは思われない。彼は信心深い農民画家として絵筆を握っていたのではあるまいか。しかし、可能性として考えるならば、彼は社会主義の先鋭として祭りあげられていたのかもしれない。貧しい農民や労働者を描いた写実主義の重々しい画風は、ロシアの社会主義絵画にひそかに受け継がれているといってよい。

いずれにせよ、ゴッホは自分の一作が哲学の権威に論述されようとは思わなかったに相違ない。
くしくもハイデッガーが生まれたのは画家の没する前年。少々こじつけがましいが、自作の解釈を後世に残そうとした無念きわまりなき画家の執念が魂の片割れとなって、哲学者に宿ったかのような奇妙な縁ですらあるまいか。

このハイデッガーの論考からもお判りのように、そこに描かれたものの何たるかはもはや、画家の芸術の価値そのものに影響を与えない。繰り返して言うが、すぐれた芸術の価値とは思慮深さを、すなわち自己とそれをとりまく世界との関係について思いいたす行為を与えるかどうかにあるからだ。乱暴に言えば、紙に一点色置いたものですら、それがある人間に思考をもたらすとすればそれは価値があるといえるのである。芸術作品のクリエイティヴィティとはまさしくそういうものだ。だから人が、自分になにがしかインスピレーションを与えてくれる作品については褒めそやすが、なにも響いてこない、なにも考えさせない作品については冷淡なまなざしを向けるのは、えてして世の定理なのであろう。もはや自己のスタイルだけを反復するだけの成長の見込みのない作品には価値がない。

ゴッホはつねに執拗におなじもの──そのひとつが言うまでもなく自画像だ──を描いたが、どれひとつとってみても同じものにならないのがふしぎである。彼の自画像は彼であって、また彼でないもののように思える。それこそがまさしく、多くの人々を心酔させてしまうゴッホ芸術の魔力なのだ。

そして、ふしぎなことは。
この靴の絵からもわかるように、事物をあれほどリアルに描ききったのに、人物だけがなぜコケティッシュにデフォルメされすぎているのか。もちろん、年代によって、ゴッホが浮世絵の影響をうけ、平面化された造形を好むようになったといえばそれまでのことだ。だが、私にはゴッホは自分を描きながら、自分を自分でないもののように変じさせることでなにがしかを模索していたのだとも思われる。

数年前に足利尊氏とされた肖像画が室町時代の名も知らぬ野武士であったり、源頼朝と言われた肖像画が足利直義であったりと判明した際には、歴史の教科書を書き換えねばならない大事となったはずである。ゴッホが描いてきたのは歴史を変えてきたほどの偉人ではなかったがゆえに、今回の発見は美術史を揺るがすほどの一大事というわけではなかろう。しかしまたそのことが、描かれたテオを歴史の闇に埋もれさせることになってしまった。写真といっても、当時はいまほど精巧ではないモノクロであろうから、モデルを見誤る可能性はあろう。

ここで注目すべきなのは、モデルの正体の是非ではなくして、なぜその一枚は長年自画像とされてきたのか、ということである。
先ほども述べたように、画商テオの援助なくしてはフィンセントの旺盛な創作活動はとても成り立たなかった。しかるに、その感謝のしるしとして兄が弟に肖像画をプレゼントしたとしてもおかしくはない。

そこで私は少々荒削りではあるが、二つの仮説を立ててみようと思う。
そのふたつは決して対立するものではなく、相互に補完しあう内容のはずだ。


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