「私論ですが」と前置きしつつイチ個人の見解を説くとき、賛成はなくてもいいですが、あなたの反論の余地は認めますよ、という余裕を感じるのか。それとも、どこかの誰かが言っていそうなことなのに、自分が発見したかのような愉悦を帯びているのか。それは当人の語り口によるのかもしれません。
私論に対するのは、何でしょうか。
「世論」という言葉が浮かびます。国民の声。多くの人の声。しかし、世論が必ずしも正しいとは限らない。たとえば、誰しも日本の赤字国債の累積額を考えれば増税しかないわけだけど、2019年10月開始の消費税増税に対しては諸手を上げて万歳でもない。世論が、実は数だけ大きな利欲の凝固した私論の塊なのだとしたら、正当に民主主義上、私論に対すべきは「公論」という言葉にあるはずです。
従来、私論は耳に入れないこともできるもので、いっぽう、公論は個人が知ろうが知るまいが社会正義として現前として存在していたはずのものでした。公論を放つことができるのは、大衆を前に演説できる者、文字で著せる者に限られていた。しかし、今はそうではない。ゆきすぎたウェブ言論のせいで、ひとつ口にすれば千も万もが従うとされた著名人の言葉ですら、無数の私語によって消し飛ばされることがありうるのです。
性的少数者(LGBT)に対する差別寄稿で非難轟々を浴びた論壇誌「新潮45」が、けっきょく、先月発売の10月号で休刊を決定したそうで。9月号に波紋を受け、さらに火に油を注ぐような反論特集を組み、SNSなどで作家からの批判が相次ぐ。とうとう、新潮社社長から誤解があったとの謝罪会見。取締役会での討議のすえ、休刊に至ったとのこと。炎上商法を狙って売上を伸ばそうとしたが、裏目に出たということなのでしょうか。政治家の失言みたいに、ほとぼり醒めるまで触れなければよかっただけなのでは。
この一件については、読売新聞朝刊10月2日付けの文化面特集にして知りました。
当然ですが、世の批判を浴びて歴史ある雑誌が、限りなく廃刊に近いかたちに追い込まれるのは、雑誌ジャーナリズムの危機。
この「新潮45」に連載を持っていたある研究者はこう語ります。
かつては論争のあるテーマでも賛否両論バランスよく採りあげていた本誌は、いつか「公論の形成」という社会的使命を忘れた。不満の捌け口を求めた一部読者に迎合したがために、過激な暴論ばかりを繰り返すようになった。先進国のマスメディアはもはや、人びとの対立をいたずらに煽る意見に浸食されている。
また、あるフリージャーリストは、過去の大物論客が論陣を張った特集を懐かしみつつも、出版社が問題のある特集を検証せずに、臭いものに蓋をするという安易な論理で休刊してしまった措置を憂えています。文筆業者にとって月刊連載は貴重な収入源ですから、恨み節も投げたくなるでしょう。
これは、なにも雑誌や新聞、テレビなどのみならず。
アニメや漫画、映画、等の表現物にも言えそうな問題です。たとえば、著者が描きたいテーマや描写があったとしても、出版社や報道機関が「読者・視聴者の声を忖度して」方向性を捻じ曲げる。ネット上で見たい、欲しいという苛烈すぎる声の大きさばかりに注目したばかりに、似たり寄ったりの作風や展開ばかりが濫造されていく。ルネサンス期以後の美の表現が爛熟しきった時代をマニエリスムと呼び、これはマンネリの語源となったのですが、見られるもの、読めるものが一定の水準で供給されていくのを受け手として喜ぶべきなのか。なかには、もう飽きてうんざりしている人もいて、その冷や水は他ならぬ情報の発信者からではなかったろうかと思われるのです。
それにしても、雑誌の衰退は嘆かわしい。
平成の大横綱・貴乃花親方の相撲協会への異議申し立てが週刊誌にリークされたけれど、独り相撲扱いされて、ついには角界を去る決意までさせてしまった。SNSや動画などで拡散すればカリスマ的な時の人に躍り出る反面、ひとが良識を失って担がれた神輿をある日急に落とされていく恐れのあるようなこの時勢は、どこか、革命を扇動してついにはみずからが断頭台に消えてしまったフランス革命の雄の趨勢と似ています。
SNSや口コミ投稿で個人が企業などを批判することも可能で万能感を得られやすいものの、反動で社会的不利を得ることもあります。
癖のある雑誌であったとしても、そこにある程度の執筆者があり、読者だってついている。出版社や編集者が代弁することによっての、ある程度の法倫理の機能はあるべきであって、そうした公明正大な言論の場を守るためにも目先の部数のみに汲々としないでほしいものですね。
ただ、良識ある雑誌がすたれていってしまうのは、ひとえにわれわれ読者の認識の劣化といえなくもありませんね。雑誌だけではなくて、出版物すべてに言えることでしょうが。世の中には、いいね、か、よくないね、かの簡潔な表明では諮られないような問題があります。ネットで情報漁りをしただけで簡単に理解したつもりでいることも多い。社会のタブーについてよくぞ申してくれた、と膝を打ちたくなるような雑誌や新聞などがなくなってしまえば、行き着く先は、たとえネットであっても、野放図の実態のない唱和ばかりの民主主義なのかもしれません。
読書の秋だからといって、本が好きだと思うなよ(目次)
本が売れないという叫びがある。しかし、本は買いたくないという抵抗勢力もある。
読者と著者とは、いつも平行線です。悲しいですね。