1937年の映画「大いなる幻影」(原題 : La Grande Illusion)は、印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールを父に持ち、フランス映画界の父と称されるジャン・ルノワール作の戦争映画。
戦争とはいっても、ここには銃弾飛び交う戦場も、血だらけで負傷した兵士もでてこない。上から下へと流される軍規に従った厳格な組織も体罰もなく、敵も味方もなく、わきあいあいとした日常がある。荒廃した土地で飢える人民もいない。アメリカのミリタリーオタクがこぞってつくりたがるようなベトナム戦争や第二次世界大戦を扱った派手なアクションの戦闘ものに比べると、なんとも拍子抜けする。
いったい、タイトルの意味する「大いなる幻影」とは、なにか。それが読みとれぬまま、ニ度三度を鑑賞をかさねて自分なりに拙い答えを出すならば、これはいわば描かれたものの奥に意味を探る寓意画のようなものであり、この映画に起こされた戦時こそが、大きな幻想にすぎなかったということではなかったか。
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時は1916年、第一次世界大戦のさなか。
偵察飛行の任を得たフランス人のポアルディエ大尉とマレシャル中尉は、撃墜されてドイツ軍の捕虜となる。自分とおなじく貴族出身のポアルディエに敬意を払った、ラウフェンシュタイン隊長は、ふたりを手厚くもてなした。
収容されたキャンプには、ユダヤ人の金持ちの子息であるローザンタールがいて、彼に届けられる慰問品のおかげで、捕虜たちは贅沢な食事にありつけた。収容所では演芸会も開かれ、何不自由ない生活だった。
だが、マレシャルもポアルディエも、ローザンタールは、何度も脱走を試みた。
軍人としての彼らが居心地のいい囚人生活から抜けだそうとしているのは、祖国の勝利を信じているがためか。しかし、三人はさらに監視の厳しいスイス国境の愁傷所へ移送されてしまう。しかも、そこで再会したのは、負傷して前線を離れて収容所長の職をあてがわれたラウフェンシュタインだった…。
この時点では、武人としては厄介払いされたラウフェンシュタインすらも、祖国の囚われ人にされたといえよう。場所移っても誇り高い貴族意識を捨てないポアルディエだったが、ラウフェンシュタインの言葉から、いずれ貴族という特権階級が衰退していく運命を感じざるを得ない。平和が戻っても、おそらく彼の所有する財は残らないだろうという悲しい予感のために、またラウフェンシュタインと結んだ友情のために、脱走計画があがるもポアルディエは塀の内側に残る決心をする。しかし、マレシャルとローザンタールを逃がすために囮行動をしていたポアルディエは、ラウフェンシュタインによって悲劇的な最期を遂げてしまう。
逃げ延びた二人は、疲労と空腹で仲違いしながらも、エルザ母子の住まう家に匿われる。夫や身内を戦争で亡くした未亡人エルザとマレシャルのひとときのロマンス、家族のような四人の関係。しかし、二人の男はその生活とも別れて、祖国を目指さねばならなかった。
捕虜と収容所長との交流、戦時下での敵味方を超えた友情というテーマは「バルトの楽園」や「戦場のピアニスト」でも見られたが、本作のそれは美談めいたつくりにはなっておらず、ナチスドイツが侵攻しヨーロッパ大陸に戦雲がたちこめつつあった1937年という時代を考えると、戦争の勝敗の行方よりも、その後に起こる社会の混乱にこそ監督の目が向きつつあったと見てとれるだろう。
明確に反戦を唱えた、もしくは戦争を掲揚した戦争画ではなく、我々は戦場に転がった牧歌的な風景画を眺めているような心持ちになる。何も描かれていない額縁の外を探るような用心深さ、額縁の中におさめられた世界が過ぎ去った良き時代であると思わせる諦観。そんなものが必要とされるような映画である。詩的リアリズムとあるが、美化されすぎた言辞によって語られた現実ではないのがいい。戦争の酷さを直接的には描写していないが、しかし、ある世代の零落を予感させ、平和をおいそれと望みえない時代の厳しさを最後にしっかりと語らせる。そこがいい。
長回しでシーンを細かくカットして繋げない手法は、ルノワール監督の持ち味だが、人物の動きが緩慢に思え、スピード感あふれる現代の映画に慣れっこになっているとかなり退屈に感じる。そのせいか興行的に成功をおさめる映画に恵まれなかったが、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たるフランソワ・トリフォーやゴダール、ネオレアリスモのルキノ・ヴィスコンティらに及ぼした影響は大きい。
主演は「フレンチ・カンカン」で知られるフランスの名優ジャン・ギャバン。
(2010年2月8日)
大いなる幻影(1937) - goo 映画
戦争とはいっても、ここには銃弾飛び交う戦場も、血だらけで負傷した兵士もでてこない。上から下へと流される軍規に従った厳格な組織も体罰もなく、敵も味方もなく、わきあいあいとした日常がある。荒廃した土地で飢える人民もいない。アメリカのミリタリーオタクがこぞってつくりたがるようなベトナム戦争や第二次世界大戦を扱った派手なアクションの戦闘ものに比べると、なんとも拍子抜けする。
いったい、タイトルの意味する「大いなる幻影」とは、なにか。それが読みとれぬまま、ニ度三度を鑑賞をかさねて自分なりに拙い答えを出すならば、これはいわば描かれたものの奥に意味を探る寓意画のようなものであり、この映画に起こされた戦時こそが、大きな幻想にすぎなかったということではなかったか。
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時は1916年、第一次世界大戦のさなか。
偵察飛行の任を得たフランス人のポアルディエ大尉とマレシャル中尉は、撃墜されてドイツ軍の捕虜となる。自分とおなじく貴族出身のポアルディエに敬意を払った、ラウフェンシュタイン隊長は、ふたりを手厚くもてなした。
収容されたキャンプには、ユダヤ人の金持ちの子息であるローザンタールがいて、彼に届けられる慰問品のおかげで、捕虜たちは贅沢な食事にありつけた。収容所では演芸会も開かれ、何不自由ない生活だった。
だが、マレシャルもポアルディエも、ローザンタールは、何度も脱走を試みた。
軍人としての彼らが居心地のいい囚人生活から抜けだそうとしているのは、祖国の勝利を信じているがためか。しかし、三人はさらに監視の厳しいスイス国境の愁傷所へ移送されてしまう。しかも、そこで再会したのは、負傷して前線を離れて収容所長の職をあてがわれたラウフェンシュタインだった…。
この時点では、武人としては厄介払いされたラウフェンシュタインすらも、祖国の囚われ人にされたといえよう。場所移っても誇り高い貴族意識を捨てないポアルディエだったが、ラウフェンシュタインの言葉から、いずれ貴族という特権階級が衰退していく運命を感じざるを得ない。平和が戻っても、おそらく彼の所有する財は残らないだろうという悲しい予感のために、またラウフェンシュタインと結んだ友情のために、脱走計画があがるもポアルディエは塀の内側に残る決心をする。しかし、マレシャルとローザンタールを逃がすために囮行動をしていたポアルディエは、ラウフェンシュタインによって悲劇的な最期を遂げてしまう。
逃げ延びた二人は、疲労と空腹で仲違いしながらも、エルザ母子の住まう家に匿われる。夫や身内を戦争で亡くした未亡人エルザとマレシャルのひとときのロマンス、家族のような四人の関係。しかし、二人の男はその生活とも別れて、祖国を目指さねばならなかった。
捕虜と収容所長との交流、戦時下での敵味方を超えた友情というテーマは「バルトの楽園」や「戦場のピアニスト」でも見られたが、本作のそれは美談めいたつくりにはなっておらず、ナチスドイツが侵攻しヨーロッパ大陸に戦雲がたちこめつつあった1937年という時代を考えると、戦争の勝敗の行方よりも、その後に起こる社会の混乱にこそ監督の目が向きつつあったと見てとれるだろう。
明確に反戦を唱えた、もしくは戦争を掲揚した戦争画ではなく、我々は戦場に転がった牧歌的な風景画を眺めているような心持ちになる。何も描かれていない額縁の外を探るような用心深さ、額縁の中におさめられた世界が過ぎ去った良き時代であると思わせる諦観。そんなものが必要とされるような映画である。詩的リアリズムとあるが、美化されすぎた言辞によって語られた現実ではないのがいい。戦争の酷さを直接的には描写していないが、しかし、ある世代の零落を予感させ、平和をおいそれと望みえない時代の厳しさを最後にしっかりと語らせる。そこがいい。
長回しでシーンを細かくカットして繋げない手法は、ルノワール監督の持ち味だが、人物の動きが緩慢に思え、スピード感あふれる現代の映画に慣れっこになっているとかなり退屈に感じる。そのせいか興行的に成功をおさめる映画に恵まれなかったが、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たるフランソワ・トリフォーやゴダール、ネオレアリスモのルキノ・ヴィスコンティらに及ぼした影響は大きい。
主演は「フレンチ・カンカン」で知られるフランスの名優ジャン・ギャバン。
(2010年2月8日)
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