NHK連続テレビ小説朝ドラの「ゲゲゲの女房」や、あるいは鬼太郎の令和リメイクが大人気で、水木しげるブームが起きているこの現代。
子どもの頃に観ていた「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」の記憶はありますが、卵型のフェイスラインと「ち」の文字のような特徴的な鼻筋をもつ水木作品はけっこう苦手で。
妖怪漫画家とされていますが、じつはすぐれた現代史の諷刺作家でもあり、ご自身の太平洋戦争復員経験にもとづいた、我が国を代表する戦記漫画家でもあります。
本作「総員玉砕せよ!」(講談社文庫)は1995年に刊行された、水木しげる先生の代表作。
私が手にしたのは2022年の真相完全版で、巻末には没後に発見された肉筆の構想ノートも一部収録されています。
まず目を奪われるのは、濃密なペンタッチの描きこみ。キャラクターは水木ナイズドされた顔つきでありますが、昭和にいかにもいそうな人相っぽくてリアル。
時は太平洋戦争末期1944年ごろ、舞台は南方戦線ニューブリテン島バイエン。
帝国陸軍二等兵の丸山たちは駐屯中に、上官からいわれなき暴力を受けたり、食材調達やマラリア熱に苦しみ、つぎつぎと仲間を喪っていく。美しい死に際を求める若き大隊長の指示で、総員500余名は突撃命令をうける。後方には供給も豊かな10万の本部隊が控え、なぜ飢餓にあえぐ自分たちがそこまでしてこのバイエンを死守せねばならぬかわからない、兵士たちの士気は統一されない。それでも敢行されて失敗に終わる。玉砕をからくも生きおおせた81名は聖ジョージ岬にたどりつくが、そこで彼らを待っていたのは非情な運命だった…。
私の祖父も従軍経験ありですが、満州で食料部隊所属だったため、シベリア抑留もされずに帰還することができました。
その祖父は晩年、上官にひどく殴られたことを口にしはしたものの、戦争体験そのものをあからさまに語ることはありませんでした。しかし、遺品から何十人もの戦友たちの写真が出てきたので、おそらく戦死者から託されたのだろうと推察されます。
この漫画の前半部はなかなかのんびりしていて、食い意地のはった丸山をはじめ、不衛生で安全ではない暮らしぶりにもかかわらず、兵士たちには恐怖感があまりない。常に死と隣り合わせに生きているというのに。
しかし、徐々に忍び寄ってくる戦争の残忍さ。
それは敵軍でも、銃器でもなく、友軍の不条理さによるもの。まだ息絶えていない兵士を助けもせずに、形見の小指を切り取ろうとする。銃を誤射して鬼軍曹を死なせてしまう。人の命を粗末にする方針に軍医は叛き、戦線を離脱したものは不名誉な死が与えられる。死地をくぐりぬけ、つかのまの休息をえたはずの兵士たちには再度の玉砕命令が下される。そう、お国の戦意高揚のために、彼らは「生きてはならない存在」にされてしまったのだった。
戦争体験については、かずかずの原爆文学や、大岡昇平の「野火」に描かれた共食いなど、死ななくていい命が散っていた顛末を知ることはできます。
軍隊と聞くと、どこかカッコいい軍刀をたずさえた英雄で、勇ましい犠牲死を遂げたと思いがち。しかし、水木しげるが描く兵士たちの最期はあまりに生々しく、腐臭さえただよってくるようなおぞましさがあります。
あとがきで「90パーセントは事実」と語るように、本作には脚色があり、実際は二度目の玉砕はなく、数十名は生還できたとされています。
それでも、爆撃で左腕を失って後方移送されていた漫画家には、玉砕で散った親友ふくめ同胞の無念の死と無意味な殺りくや無計画な行軍を強いた軍への怒りとがあふれ、この作品に事実を捻じ曲げた真実らしさをもたらしたのだといえるのでしょう。
あとがきで水木氏はこう書き残しています。
「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく“人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」
このリーダーの判断の誤りと責任逃れの姿勢で部下が犠牲になる構図、はたして現代の日本でも、どこかで繰り返されているのではないでしょうか。
彼らはなにかを憎んで戦ってきたわけでもない。ただ飲み食いしてバカ騒ぎして、そして日々が送れればそれで幸せだったのに、無情にも人生を破壊されてしまった。弱者をかばいたてる理解者もいないわけではなかったが、目的だけがひとり歩きした組織の理詰めのために消されてしまった。組織の歯車として踏み台にしていく経営者に、虫けら同然に使い捨てにされた。そうした苦痛を知っているからこそ、こうした悲劇は語り継ぐ必要があると思うのです。
戦後80年の節目にあたる、この2025年に本作に出会えてよかった。
死ぬまでに絶対に読んでおかねばならない一作。なお、本作のフランス版は仏アングレーム国際漫画祭最優秀賞を受賞しています。まさに人類が未来へ残すべき傑作漫画というべきでしょう。
(2025.02.21読了)