高校時代の頃ですが、戦争を考えるという授業がありました。
各自が意見を出し合うのですが、十代の少年少女が抱く意見には拙さもあるわけでして。作家を目指していたというある男子学生は「戦争は必要。地球の人口が増え、食糧難に陥るので、無駄な人を減らす必要がある」と答えました。私は、そのとき、ただ「『きけ わだつみのこえ』を読んで深く感動した。自分と同じような年代の若者たちが戦争に駆り出され、命を散らせた事実を忘れてはいけない」といった発言をしたように記憶しています。まことに優等生的な発言ですが、それから十数年経たいま、その想いは変わらないせよ、戦争に対し全面的にノーを突きつけるだけでは片手落ちなのではないか、という気がしないでもない。そこで暇があれば、戦争に関する文学に触れてみることにしています。その第一弾が、戦時中の米兵捕虜の生体解剖を扱った遠藤周作の『海と毒薬』でした。
今年のお正月に選んだのは、大岡昇平の小説『野火』。
みずからがフィリピンのミンドロ島にて従軍するも、米軍捕虜となりレイテ島に収容された特異な体験を下敷きにした『俘虜記』で知られる戦争文学の第一人者でありますが、第一人称でかきつづられる私小説形式の本作が、事実に忠実にみえてフィクションであることに、驚いたというよりはまだしも救われた気持ちにさせられます。
野火 (新潮文庫)
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太平洋戦争末期、フィリピンの前線部隊に所属していた「私」こと田村一等兵は結核を患い、部隊をひとり離れることに。わずかな食糧だけを頼りに南国の原野をひたすら彷徨い歩く。略奪されて領民がいなくなった村に腰を落ち着けたかと思えば、ゲリラ兵に襲撃される。誰もいない教会で、同胞たちの惨たらしい姿を目にした田村は、行軍をつづけるとある部隊に合流するが…。
映画で戦争と聞けば、描かれるのは指揮官や武将の悲劇的なまでに死に急ぐ勇姿、もしくは家族などとの葛藤と別れ、暮らしを激変させられた庶民の懊悩、などなど。如実に反戦のテーマが込められているもの。が、しかし、実際に戦場で従軍した者の苦しみを、ほとんどの豊かな生活を送ってきた日本人は知りません。剣や銃をもち、人の血を流す、殺めることの悲劇とはまた違った、根本的に人間の倫理観に問いかける問題がそこにはあるでしょう。
物資に事欠く戦場で、同胞に煙草を売りつけることで食糧を得ようとする安田と永松のコンビ。部下の命を顧みず、ひたすら突撃することだけで行軍を引っ張る伍長。商魂たくましい日本人気質であるとか、現代のブラック企業の経営者にも通じる傲慢さとかが垣間見えます。つまり、敗戦が濃厚になり撤退していく日本兵に生じたことは、怪我や病気をしたものは容赦なく切り捨て、行き遅れたものの衣服や武具は追い剥ぎのように奪い、なかば共食いのような状況がはじまるのです。戦争で人を殺すものが兵器ではなく狂気なのだとしたら…。英霊として讃えられている日本兵の戦死者の大半が、ただ飢餓や病気で苦しんで死んでいっただけ、という事実はよく知られています。
やがて、またしても孤高に陥り、裸足で僻地をさまよう田村には、野火の広がる原野にふしぎな神のこだまが聞こしめし、飢餓に苦しむあまりに、禁忌の沙汰へと駆り立てられることになります。自分の血を吸った蛭まで食べ、生草まで口にした男は、やがて同胞の屍体から目を背けられなくなります。敬虔なキリスト教徒でもあり哲学の素養もある彼ははたして、踏みとどまれるのか。それとも…。
野火のイメージは、秋の収穫後の籾殻を焼くためのものだったのか、牧草の再生を促すためにのを焼き払うものか、はたまた領民が日本兵が来たことを知らせるための狼煙(のろし)だったのか。私には地獄の劫火に放り込まれた罪深き人間の謂いであり、かつ、神のごとき巨人に火にくべられ調理され、ほふり続けられる人間の運命を言い表したもののように思えます。田村が植物までも「生きている」から口にするのをやめた、という瞬間が描かれたときに、理性の救いが得られるものの、しかし、また永松や安田が差し出した「食糧」にかぶりついてしまった後に、動物の生存本能の裏に潜む嗜虐性に気づかされてしまうのです。
戦場に友情や愛などははない。あるのは人間の尊厳を奪い、野獣たらしめる残酷な振る舞いだけだ。だからこそ、戦争をやめなくてはなるまい、というこの気づきが与えられた良著です。宗教や神という存在は社会性のある人間のみに許された創造物であり、しかし、なぜ人間にそのようなものが必要かを考えると、それは、生きることはなにかを死に至らしめることを避けられない、この不合理への反省と赦しがそうさせたのだと言えるでしょう。戦時下における異常な精神状況下での追い詰められた人間のとった愚行という判断で済まされないような気がします。
「戦争を知らない人間は、半分は子どもである」という文言が、胸に突き刺さります。
(2014年1月10日)
各自が意見を出し合うのですが、十代の少年少女が抱く意見には拙さもあるわけでして。作家を目指していたというある男子学生は「戦争は必要。地球の人口が増え、食糧難に陥るので、無駄な人を減らす必要がある」と答えました。私は、そのとき、ただ「『きけ わだつみのこえ』を読んで深く感動した。自分と同じような年代の若者たちが戦争に駆り出され、命を散らせた事実を忘れてはいけない」といった発言をしたように記憶しています。まことに優等生的な発言ですが、それから十数年経たいま、その想いは変わらないせよ、戦争に対し全面的にノーを突きつけるだけでは片手落ちなのではないか、という気がしないでもない。そこで暇があれば、戦争に関する文学に触れてみることにしています。その第一弾が、戦時中の米兵捕虜の生体解剖を扱った遠藤周作の『海と毒薬』でした。
今年のお正月に選んだのは、大岡昇平の小説『野火』。
みずからがフィリピンのミンドロ島にて従軍するも、米軍捕虜となりレイテ島に収容された特異な体験を下敷きにした『俘虜記』で知られる戦争文学の第一人者でありますが、第一人称でかきつづられる私小説形式の本作が、事実に忠実にみえてフィクションであることに、驚いたというよりはまだしも救われた気持ちにさせられます。
野火 (新潮文庫)

太平洋戦争末期、フィリピンの前線部隊に所属していた「私」こと田村一等兵は結核を患い、部隊をひとり離れることに。わずかな食糧だけを頼りに南国の原野をひたすら彷徨い歩く。略奪されて領民がいなくなった村に腰を落ち着けたかと思えば、ゲリラ兵に襲撃される。誰もいない教会で、同胞たちの惨たらしい姿を目にした田村は、行軍をつづけるとある部隊に合流するが…。
映画で戦争と聞けば、描かれるのは指揮官や武将の悲劇的なまでに死に急ぐ勇姿、もしくは家族などとの葛藤と別れ、暮らしを激変させられた庶民の懊悩、などなど。如実に反戦のテーマが込められているもの。が、しかし、実際に戦場で従軍した者の苦しみを、ほとんどの豊かな生活を送ってきた日本人は知りません。剣や銃をもち、人の血を流す、殺めることの悲劇とはまた違った、根本的に人間の倫理観に問いかける問題がそこにはあるでしょう。
物資に事欠く戦場で、同胞に煙草を売りつけることで食糧を得ようとする安田と永松のコンビ。部下の命を顧みず、ひたすら突撃することだけで行軍を引っ張る伍長。商魂たくましい日本人気質であるとか、現代のブラック企業の経営者にも通じる傲慢さとかが垣間見えます。つまり、敗戦が濃厚になり撤退していく日本兵に生じたことは、怪我や病気をしたものは容赦なく切り捨て、行き遅れたものの衣服や武具は追い剥ぎのように奪い、なかば共食いのような状況がはじまるのです。戦争で人を殺すものが兵器ではなく狂気なのだとしたら…。英霊として讃えられている日本兵の戦死者の大半が、ただ飢餓や病気で苦しんで死んでいっただけ、という事実はよく知られています。
やがて、またしても孤高に陥り、裸足で僻地をさまよう田村には、野火の広がる原野にふしぎな神のこだまが聞こしめし、飢餓に苦しむあまりに、禁忌の沙汰へと駆り立てられることになります。自分の血を吸った蛭まで食べ、生草まで口にした男は、やがて同胞の屍体から目を背けられなくなります。敬虔なキリスト教徒でもあり哲学の素養もある彼ははたして、踏みとどまれるのか。それとも…。
野火のイメージは、秋の収穫後の籾殻を焼くためのものだったのか、牧草の再生を促すためにのを焼き払うものか、はたまた領民が日本兵が来たことを知らせるための狼煙(のろし)だったのか。私には地獄の劫火に放り込まれた罪深き人間の謂いであり、かつ、神のごとき巨人に火にくべられ調理され、ほふり続けられる人間の運命を言い表したもののように思えます。田村が植物までも「生きている」から口にするのをやめた、という瞬間が描かれたときに、理性の救いが得られるものの、しかし、また永松や安田が差し出した「食糧」にかぶりついてしまった後に、動物の生存本能の裏に潜む嗜虐性に気づかされてしまうのです。
戦場に友情や愛などははない。あるのは人間の尊厳を奪い、野獣たらしめる残酷な振る舞いだけだ。だからこそ、戦争をやめなくてはなるまい、というこの気づきが与えられた良著です。宗教や神という存在は社会性のある人間のみに許された創造物であり、しかし、なぜ人間にそのようなものが必要かを考えると、それは、生きることはなにかを死に至らしめることを避けられない、この不合理への反省と赦しがそうさせたのだと言えるでしょう。戦時下における異常な精神状況下での追い詰められた人間のとった愚行という判断で済まされないような気がします。
「戦争を知らない人間は、半分は子どもである」という文言が、胸に突き刺さります。
(2014年1月10日)